昭和59年06月18日 月次祭



 悟りと言う事が言われます信心は悟りだと。大変まぁ難しいものとなされておりますけれど、お道の信心では信心が分ると言う事は、神様のお心が分ると言う事だと。神様のお心が分る時に、今迄難儀と思うておった事、おかげとしてお礼が言えれる。全ての事を神愛としてお礼を申上げて行けれる様な、心の状態が開けて来る事だと思う。その分ろうとも悟ろうともせずに、ただ難儀から一日も早うのがれたいのがれたいと。
 もっといやぁおかげおかげとおかげを願うと言う事からその事を通して、御信心を当らして貰うと言う。だからお話し、お道で言う御理解と言うのは、そういう私し後もが気付かなかったところを気付かせて頂くお話なんです。ですからいよいよ頂いたお話をひとつのヒントに、いわゆる真の信心を目指さして貰うと言う事は、神様の御心を分り悟らして貰う、そこから一変したものの見方考え方も変わって来る。月見て一杯、花見で一杯と言う様な事があります。
 なるほどお月様が煌々と昼を欺く様なお月夜の晩など、誰だって美しい綺麗なものだと、そうした自然に頭の下がる思いが致します。花を見てもほんとに綺麗な素晴らしい。その月やら花を愛でながら、御神酒を、お酒を頂く、お酒を酌み交わしながら月を愛で、花を愛で。それで私しゃ本当の月を花を愛でる事になると思うです。月の美しさやら神々しいまでの月夜の情景をいくら分っておっても、花の綺麗さが分っておってもそれはそれまでの事。そこに有り難き勿体無き畏れ多きと。
 いわゆる御神酒が伴のうて始めてお道の信心の、おかげの世界と言うものがあるんだと思うです。ところがほんとにあのう月を説明し、花の美しさをどんなに分っておっても、それだけで信心の功徳を得たと言う事にはならない。どうしてもそれに有り難き勿体無き畏れ多きという心が伴のうて行くというところに、お道の信心があり。そこに頂けれるおかげこそが有り難い事であり、勿体ない事であり、本当に信心も出来んのにかくおかげを頂いてと言う、恐れ多きと言う心も段々募って来る。
 昨日若先生が、私しの部屋に参りまして。もう1、2年も前の事だったそうですけれども、ある北九州の方の教会の教会長先生、もう80なん歳になられる。自分の信心の悩みをまぁいろいろと取沙汰されておられる合楽教会の、ごひれいの事を思うて始めてお手紙でお取次ぎを願わしてもらう。それでは私しは50年間悩み、そのために苦しんで参りましたものでございますけれども。
 合楽で言われる御理念にもとずいて御信心を進めさして頂いておりましたら、いわゆる心機一転本当にお礼を申し上げなければならない事を、悩みの種苦しみの元に自分がしておったことに気付かして頂いておかげを蒙っております。心の状態だけではございません。長年苦しんでおりました持病までも、この頃ではすっかりおかげを頂いてお礼の申し上げようもない。現在の状態から、合楽にご参拝頂いた訳ではございませんけれども、陰ながらお慕い申しておりますと言う手紙がまいりました。
 私しはそれを聞かせて頂いて、その50年もの間苦しんだり悩まれたり、それはどう言う事であっただろうかと思わせて頂いたら、おおきなこうヤカンを逆さまにして上がった時に伏せておる様な状態の所を頂いて。どんなに分っておる、花の美しさも月の美しさも分っておると言うだけではおかげに結びつきません。翻然としておかげで50年間の信心が続けられたこと。そこにヒントを与えて下さったのが合楽でいわれる御理念のおかげでございます。こんごもどうぞよろしゅうという、その老先生のお手紙。
 お道の中にも分ってはおるけれども、おかげが受けられないという人が沢山あるんじゃないかと思う。お道の有名な先生方が書かれた御本とか、またはお道の新聞なんかを見ますと。ここまでの信心が分っておられるのに、どうして人が助かり教会のごひれいに繋がらないだろうか。分かればおかげを頂くと言う事ではない。そこにいうなら私共が、有難き勿体無き畏れ多きを求めての信心。それに伴うところのおかげ、そのおかげのところの状態で花を見、月を眺めると言う。
 只おかげさえ頂けばよい、それこそ花よりダンゴという、花なんかどうでも良い食べる方が先だと言うのでなくて。花の美しさも色々分らしてもろうて、そこに美味しいダンゴが頂かれる。私はそれがお道の信心だと思ういますけれども。どうも分る事だけが先走っておかげがついて行かないと言った様な例が沢山ある様に思います。そこでなら花の美しさも月の美しさも解っただけではなくて。それをそれこそ花見て一杯であり月見て一杯頂きながら、月を愛で花を愛でると言う様なあいまったおかげを頂くために。
 お互いがねどういう信心をさせて頂いたなら良いか。自分の心でおかげを締め切ってしまっておる様な心の状態はないか。お取次ぎを頂いておかげを頂くと言う事は、まぁ有り難い事ですけれども、お取次ぎを頂いて信心を頂いていくという相まった事にならんと。有り難き勿体無き畏れ多きの心が育ちません。分かる。そしてそこにおかげの勿体無さを頂いて信心が成長して行くと言う、信心を辿らして貰わなければ。
 それには本当に神様のこの様にして、本当の事を分れよ信心を分れよとお働き下さっておる事を先ず知る事である。私共ま難儀な状態の時にね、ほんと商売なら商売が繁盛した、あれも願い通りになったおかげを、おかげを受けてと言うだけだったら、今日の合楽は無かっただろうと思います。ほんとにまぁその日暮し的な中にあって、本当に神様のお米がなければお米、塩がなければ塩、もうギリギリの所まで辛抱させて下さって。一日だってお粥をすすれなかったと言う事はない。塩気のない事も無い。
 それが実に神様のお働きおかげと言わずにはおれないおかげの中に。それはしとしたおかげの様にあるけれども、そこに深い御神意があったんだ。神様のお心があったんだと。分からして頂いて段々本当な事が分る。いうなら真の信心が少しづつ分らして貰い。そこから言うならば悟りの世界一切がおかげである、一遍に楽になり事だけがおかげではない。ほんとにその日その日の間違いのないお働きを、感じるところに有り難き勿体無き畏れ多きが育って来た様に思う。
 先日熱心に御信心をされます、非常に嫁ごがまぁ信心がないとは言いながら、まぁいうなら分らん事ばっかり言うたりしたりする。初めは姑親としてこれはいっちょ言うてきかしとかにゃならん。偶にはむかっとしてから、ねぇごと言いよるかと言う風な時代もあったけれども、もう最近ではそのムカッとする事がなくなりましたというお届があった。だからムカッとする事がなくなったという。
 御神意を少し悟り出してきた分りだしてきた。そのこと対して、だからお礼が言えれるところまで行くことが、神様お心が分った人の生き方でありものの見方考え方も。おかげで信心が出来ますと言う様なところまで、いかなきゃいけませんなというてお話をした事です。その道中をいたりきたりして、嫁ごがもう少し物が分ればいいけどもとか、年寄りに向って何と言う事を言うかと、言う様な間はだから御神意を悟ったとかお心が分った言う事とは言えません。
 その事に対しておかげで信心が出来ます。神の心が分ったら本当にお礼を申し上げにゃおられない、私しが改まるほかにゃない。信心の私しはあの喜びと言うのは、そういう本当な事がいわゆる本当なことから本当な事を求めて。それが自分の物になって行くそこに悟りが開けてきて。物の考え方とか見方というものが、いわゆる御神意を悟った者でなからなければ開けない、心の状態で受けて行けれる稽古なんです信心は。おかげさえ頂けば良いというのは、まぁ花より団子と言う事でしょうかね。
 只お月様の美しさとか花の美しさを、誰にでも説明出来る様なだけではなくて、心の中から湧いて出る有り難き勿体無き畏れ多き。いうならば繰り返しながら又は頂きながら、月を愛でる花を愛でると言う、そういうおかげの世界にお互い進みたいと思います。それにはお互いがそれぞれに持っておる、まぁ問題とか難儀と言うものが、言うならば御心が対して、神様のお心を悟って見える時に初めて、問題が問題ではなく難儀は難儀ではない、そこに神愛あるのみ、お礼が言えれる心の状態。
 その心の状態をいよいよ、いよいよ拡げて行く。深くして行く。お道の信心は何処までも、花やら月やらをもう説明出来れる、いわゆる信心が分ったと言うだけにとどまらず。その月を眺めていわゆる月見て一杯花見て一杯と。そこに分ると言う事とおかげとが車の両輪の様に足ろうてくる。そこから本当のおかげの世界、信心は悟りだと言われて参りました。大変難しい事を分ると言うのではなくて、その事を通して神様の心が本当に分かった時、私しはお道で言う信心の悟りが開けて来た時だと。
 今まで難儀だなぁと思うていた事をね、お礼を申し上げねばならないおかげで信心が出来ますと言う世界を、お互い目指して信心をすると言う事が真の信心を目指す者の構えであり、姿勢でなからねばなりません。金光様の御信心がいかに尊いものであるかと言う事が。論理の上に説かれたり話が出来たりすると言う事と、おかげが伴わないと言う事は、本当の悟りと言うものが開けてない情だと、翻然として悟らして貰う時に、お礼を申し上げる他にはない。
 昨日は四国のあるお教会の御夫妻が訪ねて見えた、まぁ午後からでしたから、今日は一晩合楽にお泊りなさいませ、そしてもう少しゆっくり合楽の信心を勉強してお帰りなさいと言う様な事を申しましたら、それが先生親教会に内緒で来ておりますから早く帰らんと又と言う様な事でございましたから。なにか悪いところに悪所通いをしておる様な、その考え方でおられるなぁと私しは思いました。
 合楽の信心は、合楽の言うならば御理念にゆったりこう浸り切って、まぁ難しい言うなら信心、お道で言う信心の悟りを何時の間にか垢抜けした悟りともなり。自他ともに助かって行けれる心の状態が備わって来る。ただよかとこだけを頂いて帰ると言った様な事でも、矢張りおかげを受けておられます。最近は遠方からあのう教会の先生方が次々と合楽を訊ねて見えて、合楽で出される御本とか、新聞、おかげの泉なんかを、まぁ参考にお取次ぎの御用を頂いて。
 確かに合楽で言われる成り行きを尊ぶとか、大切にさして貰うと言う事はもう大変な事です。おかげでお教会の上にもなんかおかげを頂いておる。これは2,3日前見えた先生のお話でしたけれども、けれどもそれが一つの悟りともなって御理念がいつの間にか血になり肉になり、すると言う事がいよいよ神様の御本心が分り。御本心にお応えまつれれる心の状態が開けて来る。本当に難儀難儀と言っておる、言ったり思うたりしておる人達から見たら、信心のある者の考え方天地ほどの開きになってくる。
 なぜ信心をしておっても、今日の北九州の或る教会の先生じゃないけれど、50年間もそれのために悩み苦しんでおったことが、御理念に触れて一遍に心が開けて参りましたと。そういう心が開けて来る、新たに開かれる。そこから今迄見ておったお月様も花も、ただ美しいだけでなくてね。それこそ月見て一杯、花見て一杯と、心の底から花を愛でる月を愛でる心の状態と言うものは、そこに一杯の有り難き勿体無き畏れ多きがなからなければ、いわゆる相まったおかげにならない。
 何宗教学者達がいわゆる宗教のまぁ論理的な事が詳しく分ったところで、それがひとっつもおかげには伴わない。いやそのかげ御利益と言った様なものは何か程度の低いものの様な見かたをする。なるほど花よりも団子と言った様なおかげ終始すればそれはおかしいでしょうけれども。花の美しさも月の美しさも分らしてもろうて、有り難き勿体無き畏れ多きのお熱を頂くならば堪能させて頂く成果。それには先ず神様のお心を分る、言うならば心に悟りの心が開けて来る。
 今まで難儀と思うておった事の中に、お礼を申し上げる事が出来る、そういうなら心の状態が開けて来る時に、日々が新らの心の状態と一緒に、例えそれがその日暮らしであっても。はっきりと神様のおかげを実感しながら、それが段々分るに従っておかげの世界も言うならば豊かな心も頂ける。豊かな心の世界に住んでおりますから、豊かなものにも雨にも恵まれております。と言う様なおかげを目指して、お互い信心をさして頂かなければならんと思います。
 今日はなんを話して頂こうかと思ったら今の、月見た一杯花見で一杯と言う事を頂きましたからね、ただ月を眺める花を眺めると言うだけではなくて。そこに酌み交わさしてっもらう友人があったり、それが自然の形ともなって、皆んながそれこそ一杯機嫌で花を愛でれれる、そういう信心のいわゆる今月の信心独特と言うてもいいかもしれませんですねぇ。心の底から季節の事にお礼が言えれる心の状態を、目指すと言う事が真の信心を目指すと言う事だと思うんです。
 沢山の信奉者がありますけれども、一生をただ花より団子で終わってしまう様な事であっては、あの世に持って行くものも、この世に残しておける物も無いと、あの世に持って行け、この世にも残して置けると言う事は、いよいよ御神意を悟らしてもろうて。悟りの世界にいよいよ深く広くわかり、住まわせて頂いて一切の事にお礼が言えれる様になったと。そういう信心に初めて御神徳、神を信ずる者は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰せられます様に。
 私の心が分ったら難儀を難儀と感じんで済む却ってお礼が、言うてもらいたいんじゃと神様が仰る様なところから、分かる所を分らしてもろうてお礼の実感が伝わってくる。そういう信心を目指すと言うことがね大切です。目指しておればそれが御神意にかなう事であれば、必ずおかげになって成就する。はぁ私しのこの様な願いでも神様は聞き取って下さってあるのだなぁと分る時に。
 いわゆるおかげの実感と言うものは感じられるもんだと。昨日は父の日でしたから、あの楽長の田中さんがお祝いに来て下さった。そしてお届をされますのに。私がもう長年私しがこうやって琴の御用を頂いておられますから、これを孫たちにどうしても伝えたい、これだけはどうでもと思うておりましたら、或る方から先だって御琴を一面頂きました。それでまだ中学校、孫のというかお婆ちゃんの血を引いたんでしょうね。大変声の美しい孫がおりますからそれに私しが頂いて参りました。
 琴だけでもどうしても伝えておきたいと思うておったのですが。お許しが頂けるでしょうかと言うてお届けがあった。そりゃもうほんとに神様が喜んで下さること。又言うならば思いもかけない琴が送られてきたなんて、いよいよ神様がそれを願うておられる。早速それは実行に移されたがいいですよ。というて申しました事でしたけれども。止むにやまれん間違いのない事を一心に祈るとか思うと言う事は必ず成就致します。
 そういう一つの成就をみるたんべんに、神様の間違いなさを果さして頂くと言う事を、積み上げて行く事。またはその事を通して御神意を深く広く分らして貰うて、腹が立ちよったモヤモヤしよった。この頃ではおかげでそのモヤモヤはせんごとなりました。というところに留まらず、その事に対してお礼が言えれる。まぁ普通信心のない人達から言うたら馬鹿みたいな。嫁ごが姑親に年寄りに向って、そんな乱暴な事を言うたりしたりするという事は許せない。
 それが普通一般ですけれども許せないと言うて、それを攻めたてたりするば。なぁそこの八女のお母さんが先だってから見えて、もう本当に私しの方のこのこの人は、もうここでじゃからこそもてとられる。本当に御信心をされるお家に貰うてもろうて、と言うて親が言うたり気付いたりするほど、まぁ乱暴な嫁さんだそうですけれども。その乱暴な嫁の向こうに御神意がある。神様のお働きがあっておる、初めて分らしてもろうてそれに対してお礼が言えれるところまでお互い信心を進めて行きたい。
その辺のところでいたりきたりしておったんでは、何時まで経っても真の信心を見る事も、心に悟りが開けたと言う事も無いと思います。信心は悟りなり。親神様の心が分った。心から分った。憎うてこの手が上げらりょうかというなら親の思い。その叩かれる手に縋ってお礼が言えれるところまで、お互い信心を進めて行こうと言う事になりませんと、ほんとの信心のいうなら、まぁ喜びと言うものは育たないとおもいますね。
   どうぞ。